2010年2月5日金曜日

箸墓古墳

ヌナカワミミ(沼河耳)は神武天皇の子の綏靖天皇ですが、その母は三輪のオオモノヌシ(大物主)の孫、ヒメタタライスキヨリヒメ(比売多々良伊須気余理比売)とされています。イスキヨリヒメの家は大和の大神神社摂社、狭井神社の付近にあったとされています。

狭井神社と箸墓は二キロほどしか離れておらず、言ってみれば箸墓はヌナカワミミの母の家の庭のような場所にあります。箸墓の周辺は大三輪氏を介して、神武天皇・綏靖天皇と密接に関係しています。

神武天皇の東遷に同行した異母兄のタギシミミ(多芸志美々)の母は阿多の小椅君の妹、アヒラヒメ(阿比良比売)ですが、阿多の小椅君は天孫降臨神話の吾田にちなむもので、阿比良比売はウガヤフキアエズの活動する吾平に関係します。

タギシミミは長らく朝政にたずさわって経験もあり朝政を自由にしていました。神武天皇の死後、タギシミミはヌナカワミミ兄弟を殺そうとしますが、このことを母のイスキヨリヒメに教えられたヌナカワミミは、逆にタギシミミを殺します。

『日本書紀』綏靖天皇紀の紀年を見ると、神武天皇と綏靖天皇の間に三年の空位期間がありますが、大和朝廷が成立してもその初期の大王位(天皇位)はまだ安定しておらず、後継争いが起きたようです。

東征以前から従って来た中臣氏・忌部氏・猿女氏などの天神系氏族(銅矛を配布した部族)がタギシミミを擁立しようとしたのに対し、東征後に服属するようになった大三輪氏・賀茂氏など地祇系氏族(銅鐸を配布した部族)がヌナカワミミを擁立しようとして対立したことが考えられます。

殯(もがり)は言わば弔問の期間ですが、この期間に弔問者の間で後継者が決められ、墓(古墳)が築かれますが、古墳を築いた者が後継者として認められます。ヌナカワミミは親を思う気持ちが強く三年間は神武天皇の喪葬に専念したとされています。神武天皇の墓を築いたのはヌナカワミミでしょう。

『日本書紀』はこれを「山陵の事」と記していますが、盛大な葬儀が行われ、巨大な山陵(古墳)が築かれたことが推察されます。この時から前方後円という定形化された古墳が姓(かばね)を与えられた者の墓とされるようになるのでしょう。

神武天皇は別名を神日本磐余彦天皇ともいいます。磐余は桜井市中部から橿原市東南部にかけての地域ですが、そこには大和三山のひとつ畝傍山があります。『日本書記』に見える神武天皇の「畝傍山東北陵」を畝傍山の東北に神武陵があるという意味に解釈すると、箸墓古墳を神武天皇陵と見ることが可能になります。

箸墓古墳は大神氏、加茂氏などの地祇系氏族や、綏靖・安寧・懿徳各天皇の妃を出した磯城県主の祖、あるいは銅鐸を配布した部族の残存勢力が、綏靖天皇を大王に擁立するために造った、神武天皇の墓だと考えるのがよさそうです。

ことにヌナカワミミの母は三輪山に祭られているオオモノヌシの孫とされており、箸墓古墳の築造に大神氏(大三輪氏)が関係したことを考える必要があります。箸墓古墳は磯城にありますが、磯城県主の祖にも注意する必要がありそうです。

私は神武天皇東遷開始を266年と考えています。仮に即位まで7年が経過したとすると即位は273年になり、17年だと283年になりますが、即位までに要した期間と在位期間を見込んでも神武天皇の死が4世紀になることはないでしょう。

箸墓古墳の外堤から出土した布留〇式期土器の時期については、240~260年とする説が出されて話題になっていますが、280~300年とするのが一般的です。これだと卑弥呼の時代とは30~50年の差が出ます。私の考える神武天皇の死の時期と箸墓の築かれた時期が一致しますが、箸墓古墳は卑弥呼の墓ではなく、神武天皇の墓と考えるのがよいようです。

これは箸墓古墳の周濠・外堤から出土したという布留0式土器の年代の問題になりますが、古墳の形態からは4世紀中葉という説もあり、「可能性がある」という程度のものと思うのがよいようです。私は「欠史八代」の崇神天皇の時代を360年ころと考えていますが、現状では箸墓古墳が崇神天皇陵であってもおかしくはないと思っています。

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