2011年6月19日日曜日

高天が原神話 その4


倭人伝に租賦(税)が徴収されそれを収めるための邸閣(倉庫)があり、また国々に市があって有るものと無いものが交易されているが、大倭がこれを監督しているとあります。大倭とは倭の最高有力者といった意味のようです。

大倭については大倭王のことでありそれを奴国王だとする説があり、また畿内説では大和の有力者だとする説もありますが、神話では天岩戸以後、天照大神と高木神(高皇産霊尊・高御産巣日神)がペアで活動するようになります。

高木神はしばしば天照大神を差し置いて単独で活動することがあり『日本書紀』の一書は「皇祖」としていますが、「卑弥呼以後」を考える上で高木神を無視することはできません。

高齢の卑弥呼と違って台与は13歳の少女で女王としてのカリスマ性に欠けており、カリスマ性という面では大倭の方が勝っていたような感じを受けます。大倭は女王国の事実上の支配者のようで、高木神と大倭の性格が一致します。

卑弥呼は共立されて邪馬台国に国都を置いただけで邪馬台国の王ではありません。邪馬台国には元来の支配者(王)が居るはずですが、神話の冒頭で高木神(高御産巣日神)は高天が原に居る「別天つ神」の1柱とされており、邪馬台国の元来の支配者は高木神のようです。

高木神を祭る神社は旧高木村を中心とする上座郡とその周辺(邪馬台国)、及び国境を跨いで隣接する遠賀川流域の嘉麻・穂波(奴国)・田河郡(伊都国)に分布しています。倭人伝の記述から大倭はこれらの地域の交易を差配していたことが考えられます。

上座郡は筑後川に面した郡で、高木村は筑後川支流の佐田川の上流部に位置していますが、筑後川の川舟による交易がおこなわれていたことが推察されます。交易品は筑後川の水運により筑後や肥前の市場に、また遠賀川の水運によって筑前東部や豊前の市場に供給されたでしょう。

大倭は筑前内陸部・筑後・肥前・豊後など筑後川流域の物資と、筑前東部・豊前など遠賀川流域の物資を交互に流通させて、女王国全体の過不足を調整していたと考えられ、その中継地点が上座郡の高木村であったことが考えられます。

高木村は平凡な山間の村ですが、その地勢から見て隣の小石原村とは一体であり、物資の中継地の役割を果たしていたとするのがよいようです。近世の筑前21宿の小石原宿は北の嘉麻・田川方面、東の英彦山方面、南の宝珠山方面、西の朝倉・甘木方面など、四方に伸びる交通の要所だったので、日田街道の脇宿として栄えました。

3世紀の交易ルートについては西の秋月・甘木に至るルートも考えられますが、このルートは筑後川には遠くなり、西の二日市地峡方面への搬送するルーとだと考えるのがよさそうで、遠賀川流域の交易品は高木村を南下して、旧朝倉村の筑後川畔に至るルートで運ばれたと考えます。

ルートが筑後川と接するのはその地勢から志波か山田になると考えますが、志波は安本美典氏も注目している場所です。その志波と山田の中間の恵蘇宿に恵蘇八幡宮があり、その前の筑後川に山田井堰と呼ばれている堰堤が設けられています。

井堰付近に渡し場があったということですが、このあたりから水深が急に深くなるため渡し舟が必要だったのでしょう。この渡し場は筑前・筑後の物資の流通経路でもあったでしょうが、大倭が監督して流通させていた交易品もここにあった船着場で揚げ降ろしされたと想像しています。

私は恵蘇八幡宮の背後の御陵山にある古墳が卑弥呼の墓だと思ってきました。御陵山は予想される船着場から見上げる位置になりますが、卑弥呼の墓は船着場から見上げることを意識して築かれており、それが人口に膾炙されて帯方郡使の張政の耳に入り、倭人伝の「大作冢、径百余歩」という文になったと考えていました。

神話には天岩戸にこもる以前の天照大神(卑弥呼)と高木神(大倭)の関係を示す記述がありませんが、高木村や小石原村が高木神と関係するのであれば、高木神とペアで活動する天照大神、つまり台与のとするほうがよさそうにも思えます。確証がないので卑弥呼・台与と限定せず天照大神の墓としておくのが無難のようです。

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